洋菓子・パンの素材にオレンジ果皮の香味特徴が生かされるよう開発した
弊社オリジナル・トリプルセック
オレンジ果皮のフレッシュさとビターな香味が際立ち、ノビが良く、オレンジのフレッシュな香味を加えられます。製菓材料として使いやすいトリプルセックです。
商品名 | アデットスウォード・トリプルセックEX |
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アルコール度数 | 40% |
原産国 | フランス |
容量 | 20LBIB |
EXは自信の現れ
このトリプルセックに、製造元のアデットスウォード社は「EX」、「EXTRA」と冠しました。
アデッドスウォード社が通常販売しているトリプルセックをベースに、製菓業界に特化した販売をするため、よりオレンジのフレーバーを強くした宏洋オリジナルのトリプルセックです。
製品名の「EX」は「EXTRA」、つまり「特に」オレンジ果皮のフレッシュでビターな香味が際立っているとする自信の現れです。
同時にそれは、ノビが良く、原材料としても使い易い製品に仕上がっている事を意味します。
オレンジ系のお菓子にはもちろん活躍しますし、焼菓子にアンビベして使えば優しく柔らかい味わいとなり、クリームに添加すればフルーティーな明るい味わいが表現できます。
自社ラインナップのトリプルセックよりもさらに(Extra)濃いレシピで製造されており、オレンジピールのフレッシュでビターな香味が味わえます。
アデット&スウォード社の名前を冠していることから、同社の渾身の作であることがうかがえます。
パッケージにはブドウとワインが描かれていますが、まさにアデット&スウォード社ゆかりの地であるボルドーを象徴するもので、ボルドーの地と歴史を誇りに思う心の表れです。
トリプルセックとは
トリプルセックとは「三回蒸留」の意味で、キュラソーやグランマニエ、コアントローもトリプルセックに含まれ、代表的なオレンジリキュールとされます。
トリプルセックが発明されたのは1834~1849年と言われており、世界に広まったのは1878年にパリで開催された国際展示会Exposition Universelle of 1878においてでした。
そこでは数社の蒸留所がトリプルセックを”Curaçao triple sec”(ドライキュラソー)として、従来のオレンジリキュールを
“Curaçao doux”(スイートキュラソー)と区別して展示していました。
アデットスウォード社
アデットスウォード社の前身はボルドーの二人の男性、キュルシエとアデットが創立した貿易商。
2人は英国女性と結婚、得意先も英語圏を主としました。
キュルシエが死去すると、未亡人の弟である英国人スウォードが会社に入り、後にこのスウォード一族が会社を運営して今に至ります。
20世紀初頭、ボルドーでネゴシアン業務に乗りだし、アデットスウォード・コニャック、同ボルドー・ワイン、ビーハイブ・ブランデーなどを発売しました。
このビーハイブ・ブランデーは1920年代に日本にも輸入され、当時の大正ボーイたちに好評を博しました。
アデットスウォード社の生い立ち
時は、1850年前後に世界各地で起こったゴールドラッシュ。1848年にカリフォルニアで砂金が発見されたのが発端で、金鉱脈目当ての移民たちが世界中から集まり、アメリカ大陸のみならず、オーストラリアでも起こりました。
当時、1845年から飢饉に見舞われていたアイルランドからは特に移民が多かったと言われ、このゴールドラッシュの移民によりカリフォルニアやオーストラリアでは人口が爆発的に増え、経済面で大きな発展を遂げることとなりました。
そして舞台はオーストラリア、ビクトリア州・メルボルン。1851年にゴールドラッシュが起こりました。時代が大きく揺れ動く最中、1852年にフランス・ボルドー出身の若き夢見る青年たち二人がこの地へ辿り着き、ボルドーとメルボルンを拠点に貿易商を立ち上げます。
二人の名は、ギュスターヴ・キュルシエ(Gustave Curcier1827-1872)とエドワール・アデット(Édouard Adet 1829-1903)。
二人の名前を取り、キュルシエ&アデット社(Maison de Curcier & Adet)と命名しました。
キュルシエ&アデット社は、当時のオーストラリアに存在するフランスの会社の中で、最も有名な会社であったと記されています。
1851年以降、イギリス・オーストラリア間の貿易は非常に盛んになり、ゴールドラッシュによって発掘された金やウールがイギリスに運ばれ、イギリスからはワインやシャンパン、スピリッツが輸入されました。
この酒類の輸入の大半を担ったのがこのキュルシエ&アデット社です。
二人は貿易で多大な功績を上げ、メルボルンのフランス人コミュニティでは一目置かれる存在でした。特にアデットの方はメルボルンのフランス領事を複数回務め、市民からの信頼は厚く、慕われていました。キュルシェはメルボルンのビクトリア国立美術館に絵画を寄贈しており、芸術を好む文化人でもあったことがうかがえ、二人とも上流階級の出身であったことでしょう。
二人はメルボルンでイギリス人女性と結婚します。キュルシエは商人スウォード家(Seward)の娘と恐らく1860年代に、アデットは1860年に弁護士の娘と結婚。スォード家との婚姻により商人の血はより濃くなり、キュルシエ&アデット社は家族を中心とした経営を続け、さらなる発展を遂げることとなります。
スウォード家は、当時石炭業や船舶業で成功を収めていたバーク(Burke)家とも婚姻関係を結び、これでキュルシエ家、アデット家、スウォード家、バーク家の四家の商人たちが貿易業で力を合わせることとなりました。
1866年にはキュルシエ&アデット社が、ロンドン港からオーストラリアのモートンベイ港に624ケースのワインやスピリッツを輸入したという記録が残っています。
1871年に300Lのワイン樽を380樽以上輸入した際の書類も残されており、当時のオーストラリア経済に大きく影響を及ぼしたことがうかがえます。
ところが、1872年、キュルシエは45歳の若さでボルドーで亡くなります。その後もキュルシエ&アデット社は存続するも、後に資本にウィリアム・スウォード家が加わり、さらには新たにアデットとハリー・スォードが資本を組んだアデット&スウォードボルドーカンパニーが設立されます。
ハリー・スウォードとウィリアム・スウォードは実の兄弟であり、キュルシエ&アデット社のフランス支部(輸出)とオーストラリア支部(輸入)を二社に分けたのでしょう。この二社は長年に亘って貿易を行い、互いに良い商売関係を持続していました。
このアデット&スウォードボルドーカンパニーはそれまでの対オーストラリアの輸出業のみならず、ヨーロッパの各トップブランドの販売権を得て世界に向けた流通を手掛け、世界各地へ活躍の場を広げます。
主力商品は「DOMベネディクティン」や英国王室御用達となったスコッチ「ブキャナンズ・ウイスキー」、高級シャンパン「クリュッグ」など数々の名商品の販売に貢献し、世界の富裕層のもとへ渡っていきました。
このどれもが1800年代中期~後期に掛けて発売され注目を浴びたトップブランドばかりで、アデット&スウォード社は非常に目利きの商人たちであったと言えます。
他にも、ヴィンテージコニャックやワイン、1852年に発売されたフレンチスイートブランデーで1884年以降数々の賞を受賞してきたビーハイブブランデー(ビーハイブ=蜂の巣、ハチミツをブレンドしたまろやかな味わいのブランデー)を販売し、ビーハイブブランデーは1920年代には日本にも輸入され、好評を博しました。
アデット&スウォード社と宏洋の出会いは1990年頃のこと。100年以上、良質なコニャックやブランデーを見極めてきた長年の経験を信頼し、製菓製パンにおいて香りと風味がより活きる「ロトニエ ブランデーリキュール」と「アデット&スウォード トリプルセックExtra」を共同開発しました。
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